ノマド探求

海外移住準備記

五月末にTOEIC L&Rテストを受ける。

五月末のTOEIC L&Rテストに申し込んだ。一昨年の夏に受験した以来、約二年ぶりになる。TOEICにはもう興味はない。しかし、これから次の職場探しを始めるので、履歴書の箔付けに更新することを決めた。公式にはTOEICのスコアは二年しか有効期間がないのだ。

オンライン英会話は来月から二ヶ月間程休み、TOEICの試験勉強に時間を充てるつもりだ。二年間でかなり試験内容が刷新されたようなので、新しく公式の模擬試験集を買って、それを中心に試験対策をする。ただ、全ての時間を試験対策に割くつもりはなく、スピーキングに偏在していた勉強をリスニングとリーディングの勉強に振り分けることで試験対策とする。リーディングはITの勉強を兼ねてLinuxの英語の本を読むつもりだが、リスニングはどうやって勉強しようか考えている。YouTubeに無料で公開している英語教材を、しばらくは片っ端から物色してみるつもりだ。

最高点は二年半前に取った835点だが、現在履歴書に書ける有効なスコアは800点だ。これを機に900点を目指してみる。最低でも800点台は死守したいし、高い点数が取れれば尚更良い。TOEICの勉強は二年間していないが、英語の勉強をしていなかったわけではない。英語の勉強方法をTOEICの試験対策から英会話に変えただけで、むしろこの一年間は英語にかなりの時間と労力を割いてきた。その勉強の成果は、TOEICのスコアに反映されると信じている。

心の内にだけ目標を留めておくと、そのうち何かと言い訳を捻り出して目標を下げる癖がある。弱気になった時に、自分を守るために言い逃れを良くしてしまうのだ。そのため、五月末に受験することと目標のスコアを職場で宣言することで、予め逃げ道を塞いでおこうと思う。

仕事で使う眼鏡。

近視なのでパソコンを使う時は眼鏡をかけている。お洒落な眼鏡には興味がなく、眼鏡を買う時は機能一点張りで選ぶ。物持ちが良いので眼鏡を破損させたことは一度もない。久しく眼鏡を買っておらず、一番新しい眼鏡は三年前ぐらいに白山眼鏡という有名な眼鏡屋で買った物だ。白山眼鏡の特徴である丸フレームのクラシックなデザインで、六万円を奮発して投入した。眼精疲労を軽減することにこだわり、度の強さを抑え、ブルーライトカットのレンズを入れてパソコン用に特化させた。日常生活では眼鏡をかけていないので、職場に置きっぱなしにしている。フレームは頑丈で破損する不安はないが、その分重くかけ心地は良くない。一日中かけていると鼻と首が疲れる。

今の職場は監視用の専用端末を使って仕事をするので、自席がない。専用端末と言っても、個々人に商用環境につながるPCを与えるほど会社が信用を置いていないだけで、単なるデスクトップPCを輪番者で共有しているに過ぎない。システム監視の仕事で自席を与えられる職場が稀な気もするが、他人の触ったマウスやキーボードが気になる人は精神的に辛いだろう。私も気にならなくはないが、それ以上にマウスとキーボードがPCの付属品なので、とても使いにくくて困る。特にちゃちなパンダグラフのキーボードが、タイピングしている時に良く引っ掛かりイライラさせられる。PFUか東プレのキーボードを持ち込みたいが、同僚との共用物として献上するには値が張り過ぎる。OSの設定も自分に合わせられれば仕事は捗るが、端末を輪番者で共有しているので自分の好き勝手にいじることはできない。職場でこだわることができる物は、眼鏡や文房具、それにサンダルなどの身の周りの物しかない。

私を含めて、多くの人は裸眼で日常生活を送ることは困難だ。昭和生まれの人なら眼鏡は顔の一部と謳ったCMを一度は観たことがあると思う。眼鏡をかけた状態こそ自然な状態であり、眼鏡はもはや矯正器具を越えた存在となっている。しかし、まだ意識せずとも道具としての存在感は眼鏡にはある。コンタクトレンズレーシック手術のような眼球に直接矯正を施す術が確立し普及すれば、眼鏡と違い、いずれは廃れるだろう。しかし、眼鏡が道具としての存在感を持つ限り、ペンやキーボードと同じく廃れることはないと思う。腕時計にせよ車にせよ、金のかかったこだわりの一品を使う満足感は、使い勝手を越えて、その人の自己証明の支えとなるからなのかもしれない。

最近、勤労意欲の減退が進み、居眠りするなど勤務態度に表れてきた。元々やる気の出るような仕事ではないが、給料を貰っている以上は真面目に働くのが私の義務だ。気分転換に眼鏡など身の周りのものを新調し、自分を奮起させようと思っている。

 

恐らくロクな死に方はしない。

予感はないけど、ロクな死に方はしないと思っている。堅実な人生設計などせずに場当たり的に生きてきた人生なので、当然と言えば当然だ。親のせいとか、これが何かの報いだとかは思っていない。他人や社会を一切考慮せずに自分第一に生きてきた、当然の帰結となる。

死ぬ覚悟はまだできていないが、そろそろ終焉を考え始めなくてはいけない歳になりつつある。今までのことを振り返っても、何をやってきたのか良く思い出せない。思い出が積み重なって自分という物語が深みを増していくのであれば、今のところペラペラの同人誌のように何の起伏もない人生なのだ。まともに遊びも働きもせずに三十代後半まで生きてきた。ただのフリーターだけど、ニートの亜種とも言える。それなりに真剣に人生に向き合い真面目に生きてきたつもりだったが、まだ何も達成できていないのは、いつも準備で終わり何もしなかったからだ。

少し前から思っていたことがある。熱心な新興宗教の信者が、ふと我に返った時はこんな感じなのではないかということだ。まさにパラダイムシフトと言える価値観の転換が起きて、今までの修行など何の意味も持たなくなり、はて何をすればいいのだろうかと呆然とする。それと同時に自分を縛っていたしがらみからも解放されて、しばし現世のこの世の春を満喫する。それから社会に適応できたことに安堵し、周りを見る余裕ができた瞬間、自分が何も持っていないことを自覚し、愕然としながら禿頭を撫で回す、そんな感じだ。

自分の生き方に後悔はしていない。ただ、何となくもっと上手くやれたのかなという反省はある。そして、その反省を活かす機会がこの先訪れるのだろうかと考えると、ちょっぴり寂しくなる。