ノマド探求

二次元移住準備記

社会性を捨てるには。

海外旅行の魅力の一つは,社会性を一時的にでも捨てたような気分になれることだと思う。会社を辞めて長期旅行に行ったりでもしない限り,捨てた社会性は日本に帰ってくれば復活することが保証されている。ジェットコースターに乗るのと同じことで,安全に日常から非日常に移ることができるのだ。しかし最近は、電子メールに加えて、携帯電話のローミングサービスなどが充実したことで、以前よりは社会性のつながりは保たれたままになっている。それでも、海外にいれば職場や家には戻れないし、連絡が取れてもできることは限られているので、海外旅行をする魅力は依然としてある。

社会性がどんなものかと言えば,携帯電話が良い具体例だと思う。アドレス帳に登録された電話番号とメールアドレスはその人間関係を如実に表しているし,携帯電話の九桁の電話番号は,その持ち主を同定している。だから単に社会性を捨てたければ、何も海外に行く必要はない。携帯電話やスマホを解約すればいいだけだ。失踪する必要もないし、住所を変える必要もない。一度、電話番号やメールアドレス、アカウントなどを失えば、築いた人間関係を含めてその人の社会性は即時に瓦解する。

ただ、日本にいる限りは日本人としての権利を持つのと同様に,日本人として履行すべき義務も持ち、社会に参与することが求められる。これすらも鬱陶しいのであれば、海外に移住し、外人として生きるのが一つの方法だろう。権利を限定される代わりに義務も免除され、現地の共同体の片隅で生きていく。常に薄笑いを浮かべ、馬鹿だが人畜無害のあまり言葉の通じない外人を演じればいい。しかし、海外でも現地で働き経済活動に参与すれば、当然共同体の一員として社会に参加することになる。働いたら負けだが、働かなくても近所の食堂のおばちゃんには顔を覚えられるだろうし、近隣住民から昼間からプラプラしている怪しい外人として認識されれば、それで社会に組み入れられてしまう。外こもりしてしても、日本で引きこもるのとたいして変わらないのか。

であれば、バックパッカーとして移動し続けて、誰にも顔を覚えられることなく、昼間から住民の弾劾の目にもさらされずにプラプラするしかない。移動することは、社会性を捨てるために必要なのだろうか。それとも異なる文化の中に身を置き、マイノリティとして生きていくだけで、十分に社会性は軽くできるのだろうか。