ノマド探求

二次元移住準備記

案の定、勉強が進んでいない。

無職なので時間はたっぷりとある。たっぷりとあるのだが勉強に実が入らず、一日二時間ぐらいしかTOEICの勉強をしていない。相変わらず意志薄弱な自分を再認識している次第だ。かと言って、そんな自堕落な自分が嫌いでもない。勉強にも遊びにも使える時間がたっぷりある時は、やはり遊びに時間を使う人と一緒に遊びたいと思うからだろう。計画性重視の功利主義者と遊んでも面白いことなど一つもない。もちろん駄目な奴だとは思っているけど。

今の私には、睡眠時間と勉強時間を除いて、使える時間が一日十二時間ある。この時間で何をしているかと言うと、散歩をしたり日記を書いたりしている。残りの時間は呆けていて良く思い出せない。一日の大半を費やす散歩と日記って、なんだそれと思うが、自分でもなんだそれとは思う。散歩に出て気分が乗ってしまうと、半日以上散歩をすることがまれにある。目的もなく電車に乗って目的もなく電車を降り、そして道に迷って時間は過ぎていく。リュックを背負って旅行する時もこんな感じなので、旅行に行けない代償としてこんな行動をしているのかもしれない。日記は十八歳の時から付け始めて四半世紀を超える。付け始めた当初はこの世への怨嗟を書き綴る閻魔帳になりかけたが、しばらくすると不気味な叙述詩の様相を呈していき、そして現在に至る。ただし誰に向けて書いているのか、自分でも分かっていない。

日記は日々の活動を記録する以外に、私にはもう一つの重要な役割がある。日記を書いている時の筆の乗り具合で、生活の充実度を客観的に測るのだ。何も書くことがなく困る時は、惰性で生きている時と判断し、何か新しいことをするように心がけている。新しいことであれば何でも良い。今まで読んだことのない分野の本を買ってみるとか、行ったことのない家電量販店に行くとか、自己完結できる変化でも良いし、あまり面識のない人と飲みに行くとか、それこそ思い切って職を変えるとか、展開の読めないことでも良い。何かしらの変化を生活に取り込むことで、当面は退屈せずに済む。行動が先に起きて日記を付けるのではなく、日記を付けるために行動を起こすのだ。日記に何かを書くために日記を付けているので、いささか酔狂ではあるけど退屈するよりはマシだと思って、日記を付け続けている。

こんな感じで、途中で食事を取ったり休憩を挟みながら散歩をしたり日記を書いたりしていると、思いの外時間は早く過ぎていくものだ。