ノマド探求

二次元移住準備記

蜃気楼を追う。

日本人は何でも道に仮託して、物事を達成する行程を人生観に組込む器用な精神構造を持っていると思う。目的を遂げるための手段を洗練させ、儀式や生活様式までに昇華させる能力だ。こうなると手段であるはずの道は、漠然とした甘い夢を見るための揺り籠にも変わる。定められた反復行為の中、そもそもの目的はどうでもよくなり、夢遊病者のように儀式と戯れる羽目になる。何の道を歩くにせよ、鏡に映る冴えない自分の顔と違い、その虚ろな目に映るは蜃気楼に浮かぶ理想の自己像だ。

一度歩き出すと、進む道の軌道修正は容易ではない。さらに道を捨てるのは苦渋の決断となる。妄想の王国は灰塵に帰し、また夢を見たいのであれば新たな理想の王国を探すための旅に出なくてはならない。二十年前にフリーターの地図を手渡された私は、他の多勢と同じように底なし沼に嵌った。その地図には進むべきな道など書かれてなく、出口のない迷路に過ぎなかったからだ。十年前にそのことに気付いてはいたが、引き返すことができなかった。中年フリーターに二枚目の地図を持てる者は少ない。私を含めて、次に手渡されるのは六道輪廻の地獄絵図だ。恐らく十年後には生き地獄が待っている。

反面、新卒で社会人になった友人の多くは、進むべき確固とした道が記された地図を手渡された。甘い夢を見ながら道を歩き、すでに所帯を持った彼らに簡単にサラリーマン道を外れることはできない。竜宮城に籠城する浦島太郎さながら、現実に戻ってたまるかという思いもあるだろう。ワーカホリックとかゾンビとか言われようが、そんなことは当人の知ったこっちゃない。不細工な妻も小生意気なガキも、乙姫の舞いを彩る熱帯魚だと思えば愛おしくなる。竜宮城はサラリーマンの夢を見る限り永遠だ。脱サラして飲食店とか気迷わなければ、そこそこ安泰の人生を送ることができる。一度も正社員として働いたことのない私には、実際に存在するのか分からないが、一昔前のサラリーマン道を邁進した企業戦士の中にはExcelのマクロを使わなかった人もいたようだ。様式化されたセルへの手入力は、神の国に至るための神聖な修行の一環なのだろうか。日本の生産性の低さは、夢を見るために必要な儀式の存在が裏にはある。

今でこそフリーターは蔑称だが、その昔はヒッピーやノマドワーカーと同じようにフリーターもイケてる生き方の一つだった。時給九百円の単純作業も神の国に至るための修業だった。私も周りのフリーターも、皆真剣に働いていた。だが今やフリーター道を極めようとする者はいない。何だかノマド道にもフリーター道と同じ匂いがする。この歳になって気付いたのは、人から渡された地図に書かれた道は当てにならない。順序が逆で、自分の頭で考えて行動し地図に記した跡が道になるのだ。今更遅いけどさ、トホホ。