ノマド探求

二次元移住準備記

フリーター道の先にあるもの。

定職に就かず浮浪もせず、己の社会性を希釈しつつ将来への可能性を担保する。つまりは何も覚悟を定められず、ダラダラと夢を見ながら生きてきた結果、もう後戻りができない年齢になってしまった。

朝から晩まで決められた場所で働き、稼ぎは保証されるが自由に休みは取れず、今日の延長線上に十年先の自分の姿が浮かぶ。それを安定と感じるか不自由と感じるかは人それぞれだが、好きなように働き好きなように遊びたい人が、どんなに不安を煽られる社会情勢になっても一定数いることは、昨今のノマドワーカーブームからも分かる。人生を満喫するための働き方、というか生き方を実践する人としてフリーターがいた。コンビニに入ればアルバイト情報誌が一冊二百円で売られ、テレビをつければ軽妙な音楽に合わせてファッション雑誌か何かのように情報誌が宣伝されていた時代のことだ。

フリーターは働き方というよりも、実際はヒッピームーブメントと同じで、社会人の義務と責任を負いたくない人の言い逃れ、体裁を繕うためのファッションとして流行した。私もその流行に乗り、流れに流された一人だ。頭の良い人や勘の鋭い人は、広告代理店の仕掛けた流言に惑わされることなく、堅実に社会の歯車になっていった。社会の歯車というと、味気のない奴隷のような人生の揶揄に使われるが、スイス時計と同じく精緻で堅牢な大小様々な歯車が組み合わさって社会は回っている。時々、時勢で珍妙なハトも飛び出すが、内部の仕組みは大して変わらない。そんな社会の歯車の脇で、虚しく空回りする出来損ないの歯車がフリーターだ。若い時の気迷いなら、まだ後戻りはできる。しかしフリーターを拗らすと、もはや社会の歯車と噛み合う機会は得られず、己の存在価値を求めて出来損ないの歯車同士が噛み合って不気味に蠢き始める。親が悪い社会が悪い時代が悪い、そもそもツキがなかったと、理想が現実にならかった怨嗟は気が緩むと同時に内側から滲み出る。余計なハトを時計から出そうとするプロうんこ製造機も、ブログに日頃の鬱憤を吐き出す私も、同じ出来損ないの歯車なのだ。

フリーターの矜持、そんなものを持って良いのか分からないが、持てるのであれば社会に迷惑をかけようとも道化の役割であれば許されよう。だからフリーター道を極める先にある究極の目的は、笑える死だ。周りを引きつらせる悲惨な死に方も、聖人に昇華されるような立派な死に方も、求められてはいない。ダーウィン賞の候補になる死に方が、私には求められている気がする。後戻りができない今、いかに人生という冗談にオチをつけるかも課題となってきた。