ノマド探求

二次元移住準備記

現実はドルフラングレンが教えてくれた。

神様はいない、いたとしても毎度祝福してくれるわけではないと悟ったのは、中学生の時だった。小学生から二十代前半まで、よく映画を観た。レンタルビデオを借りるお金は、お小遣いとは別に無制限にくれる家庭に育ったので、週に二、三本は映画を観ていた。劇場にもよく足を運んだ。ただ、レンタルビデオを借りに行くのとは違い、学則で禁止されていたこともあって、劇場に行くのは、ちょっとしたイベントだった。その日は、学校は休みで何も予定はなかったのだと思う。ふと、映画を観に行こうと思い立ったのだ。

目当てはダイハードの一作目。冴えないおっさんが強盗相手にビルの中で孤軍奮闘する映画だ。私は当時から勉強も運動もできず、だからと言って開き直るほど自分に自信がないわけでもなく、でも道を逸れる度胸もなかった。ホラー映画だと序盤を盛り上げるために真っ先に殺される、所謂イケてない学生だった。学生カーストの下層で蠢いていた私は、天井裏を這いずりながら老獪な戦略と根性で敵を翻弄する主人公に強く惹かれた。新聞の映画欄を調べると、上映開始時間までは余裕があったが、劇場に行って時間を潰すことにした。劇場に着くと同じ劇場でミッドナイト・ランも上映していた。ミッドナイト・ランについては、テレビのCM以外に情報はなく、逃げるは心優しい犯罪者、追うは孤独な賞金稼ぎ、確かそんな格好いい惹句が頭に残っていただけだった。それでもロードムービー好きの私にとっては、必ず観るであろう映画の一本にも数えていた。ダイハードよりミッドナイト・ランの方が上映開始時間が早く、そこで私の心は大いに揺れた。今の中学校は週休二日制だが、私が学生の頃は土曜日の午前中は授業があり、日曜日はまる一日学校を忘れられる貴重な時間だった。ダイハードを観ようかミッドナイト・ランを観ようか落ち着かず、とりあえずブラブラと辺りを歩きながら考えることにした。

魔が差した経験を持つ人は、そこそこ多いと思う。それが大惨事を招くか、火傷で済むかは、程度の違いに過ぎない。傷の浅い深いとは別に、魔が差したために悔しくてもどうにもならないことがある。時間は巻き戻せないのだ。好きだったあの子に告白していたら、今頃はどうなっていただろう、そう思う時がある。それが分かるのは、学校を卒業して酒が飲める年齢になり、同窓会で再開した後だ。その時も同じだった。檻の中で肉の塊を前にして伏せる犬のように、思考が停止していたのだろう。ふと魔が差して違う劇場で上映していた他の映画を観てしまった。それがレッド・スコルピオンだ。ソ連と言えば国旗の色は赤、だからとりあえず邦題にレッドでも付けるか、そんな貧素なマーケティング戦略の対象となる映画は、レッドアフガンを除いて面白いはずがない。なぜ、ダイハードでもなくミッドナイト・ランでもなく、ドルフラングレンのイメージビデオを観てしまったのか、その理由は今でも判然としない。予想通りレッド・スコルピオンは冷めた餃子のような映画で、観終わった後の記憶はショックからか抜け落ちている。劇場を出た時は、ダイハードもミッドナイト・ランもとっくに上映が始まっていて、もう一本映画を観るだけの時間的余裕はなく、トボトボと家路についた。

しばらくして、レンタルビデオでダイハードとミッドナイト・ランを観た。なぜ映画史上に残る二本の傑作を劇場で観る機会をまざまざと逃したのか、なぜ肉の塊を目の前にして、冷めた餃子を食べてしまったのか、現実と自分を信じられなくなった。大人になるにつれて、幼児が持つ万能感も少しずつ薄れてくる。大多数の中学生と同じように私も童貞だったが、その時を境に確実に他の童貞よりは大人になれたと思う。その後も、ドルフラングレンは私にまといつき、ダークエンジェルで二度目の奈落に突き落とされるなど、因縁の敵となった。否、今振り返れば、彼は敵ではない。死という現実を教えてくれた死神のような存在だったのかも知れない。大病をして生の喜びを知る、それと同じだ。感謝はせずとも、恨む相手ではない。ニキビ面の擦れた中学生に、ドルフラングレンが現実を教えてくれたのだ。