タイ旅行から帰って一週間が経った。今までは海外旅行から帰ると、しばらくは日本の日常に心が馴染めず陰鬱な時間を過ごしていた。今回は初日から体調を崩し、パタヤも期待と違いあまり楽しめなかったためか、すぐに心はタイから戻ってきた。体調は帰国後も優れず、耳鼻科で抗生物質をもらったり睡眠をたっぷり取るようにしたりして、回復に努めている。今週末、友達と飲んでいたせいか、調子はまだ良くない。情報処理技術者試験の日程が公表されたし、そろそろ試験勉強を再開したい。
登山シーズンになり、滑落したり遭難したり熊に襲われたりして、動けなくなった、もしくは動かなくなったお年寄りのニュースが、たまに報道される。確かに自分の体力や技術に見合わない山を選んだり、装備が適切でなかったりするケースは散見する。ただ、登山をする母数が若い人よりも断然大きいので、そのようなニュースを目にする機会が多くなるのは当然だ。数年前から登山を始め、やはり登山人口は老人が圧倒的多数である事実を実際に山を登っていると実感する。
定年を迎えたり、子育てが一段落したりして、金と時間を持て余した層が暇潰しに登山を始めるものだと思っていた。その一面はあるだろうが、それだけでもない。他に暇潰しの方法はたくさんある。それに山は山でも、別に命を落とす危険が少ないハイキング程度でも問題ない。限界を超える難易度が高い山を目指す理由の一つとして、自分の可能性が萎縮した現実を意識せざる得ない暇な時間ができ、戸惑いや不安、落胆を感じて、意識を逸らすために極端な解決を求めたからだ。
死ぬスリルと引き換えに生を実感する。危険な状況を切り抜けて自分は生きている、なんて幸せなんだと、登った山の頂上や下りた麓で脳内麻薬ドバドバになった状態で生きている現実を祝う。生に可能性を感じられなくなったので、それならばと死んでいた可能性を味わい、己の生を実感するのだ。すれ違う老人からは死に場所を求めて山に入る覚悟は感じられない。山に登る魅力の一つがスリルであることは同感する。しかし、死ぬ危険を冒してまで山を登る価値をまだ見出せない。
若い頃は、体力は無尽蔵にあり、時間も無限にあると感じていた。その時は時間さえかければ、自分は何でもできるようになる、何者にでもなれると思っていた。しかし、頭は禿げ、陰毛も白くなる年になり死を意識し始めると、やりたかったことはできないだろうし、なりたかった何者にもなれないことを悟った。寂しいが、薄々気付いていたので動揺はしていない。寂しさを埋めるために、スリルを求めもしないと思う。虚しい時間を紛らわす独り遊びは昔から得意だ。
