ノマド探求

二次元移住準備記

英語を技能として考える。

英語を意思疎通の道具として考えると、プログラミングと同じように技能となる。英語の運用能力はTOEIC L&R が基準だと漠然と考えていた時期があった。昭和の英語教育を受けた世代は、紙の試験が説得力を持つ。それに試験は必ず結果が返ってくるので、勉強の成果が分かりやすい。紙の試験で計り難い能力は、勉強の対象として認識し難いのだ。当然、勉強も試験対策に比重が偏っていった。長い難解な英文をいかに早く正確に聞き取り読み取るか、という能力を伸ばすことに多くの時間を費やしてきた。何を今更と思うが、この認識を改めるまでに勉強を始めてから15年以上かかったことになる。

聞いて読む能力が基礎となることは間違いない。ただ私の場合は聞いて読む能力に偏重したことで、英語が意思疎通の道具として使いものにならないのだ。同時に英語を書いて話せなければ、技能ではない。プログラミングに置き換えて考えると、このことがよく分かる。長くて複雑なコードを読んで、そのプログラムの構造と機能を理解することはできる。滅多に使わない多くの関数も暗記している。マトリョーシカのような入れ子構造の構文も正確に把握できる。しかし、自分でプログラムを作ろうとすると、こうすればいいんじゃないかな、という曖昧なイメージを思い浮かべるのが限界なのだ。簡単なコードすら一行も書くことができない。Hello world !も試行錯誤の上、やっと表示することができる状態だ。これでプログラミングができるとは言えないだろう。プログラムの知識があるというだけだ。短く簡単なコードでも完璧に書けることが、技能としてのプログラミングの基礎になる。英語でも短く簡単な文を書いて話せなければ、英語の知識があるだけだ。

求人の応募条件となるビジネス英語の懸念を払拭するため、オンライン英会話で発信能力を鍛えることにした。そして色んな会社の教材を調べていた時に、はっと思い至ったのが、英語は知識でなく技能だという認識だ。考えながら勉強しないと駄目なんだな。道のりは天竺より長い。

好きな場所で仕事をするには。

好きな場所で仕事をするには、当然ながら好きな場所で仕事ができる仕事に就く必要がある。では,どうやってそういう仕事を見つけて,その仕事に就くかが問題だ。

好きな場所で仕事をする方法は,二種類あると思う。一つは,会社に帰属するなり契約するなりして賃金をもらい,就業環境だけは自前で用意する。もう一つは,どこにも帰属せずに自分で資本を用意し,その資本を回すことでお金を得る。例えばライター業を考えた場合,前者は出版社や広告代理店と契約したフリーランスのライターになるし,後者は自分で情報サイトを運営する自営業者になる。前者と後者では,お金をくれる人も就業形態も異なる。最初は,どちらから始めれば良いのか迷うところだ。一層のこと両方を追ってしまうのも好手だろう。ライターになりたいのであれば,自分で情報サイトを運営しつつ,フリーランスとしても記事を書いてしまえばいい。どちらを先に始めるかは,最初に小さな資本を作ってしまうのが手っ取り早いし確実だ。最初に情報サイトを作り,それを育てながらライターの仕事を取りに行くのだ。

副業を始めるために,小説の構想を練っている。小説が売れたらその企画をクロスメディアに発展させ,印税の他に版権でも稼いで美味しい思いをしようと企んでいる。書いた小説を新人賞に応募することは,出版社と契約し,就業環境だけを自前で用意する形態に近い。できれば,Amazonで小説を自費出版し,その企画を資本として版権ビジネスに参入することが望ましい。出版社とは後で提携すればいいのだ。まだ,小説を書いてもいないのでただの妄想に過ぎないが,お金を稼ぐことに比重を置くのであれば,最初に考えておいても損はない。

 

ノマドワーカー再考。

日本から離れて生きるのもありかな,という漠然とした衝動に駆られて以来,職場を好きに選べる働き方を探している。そして,ノマドワーカーが流行になり,手っ取り早そうに思えたので流行に乗ることにした。一時の流行は過ぎたが,無職で暇を持て余していることもあり,ノマドワーカーとは何かを考えることにした。

ノマドワーカーの定義として,特別な雇用形態を指すものではなく,会社員なら会社,個人事業主なら自宅というような,限定された職場以外で仕事をする人を指すものでもない。居場所がないので外で書類整理をする会社員も,家だと子供が騒がしいので外でメールの整理をする自営業者も,等しくノマドワーカーではないだろう。高級ホテルや空港で仕事をする商社マンやメーカーの営業マンもノマドワーカーではない。さらには,Webサイトでアンケートに答えてポイントを集めているプー太郎も,ややノマドワーカーとは違う気がする。

私の認識では,ノマドワーカーは喫茶店などの公共の場で仕事をする人ではなく,スタバで仕事をしたいからスタバで仕事をする人達だ。家の近くのベローチェでもドトールでも談話室滝沢でも駄目なのだ。歩いて二十分ぐらいかかっても,駅前のスタバで作業ができなければノマドワーカーではない。これはノマドワーカーの条件であるとともに特権でもある。例えば新橋に職場がある会社員が,気分転換に会社近くの喫茶店で仕事や打ち合わせができても,美味しいゆで卵が食べたいからといって新幹線で二時間かかる名古屋の喫茶店で仕事はできない。しかし,ノマドワーカーであれば,ゆで卵を頬張りながら仕事ができるのだ。今日は表参道のスタバ,明日は羽田空港のラウンジ,明後日はバンコクのコインランドリーというように,好きな場所で仕事をする特権がある。

ノマドワーカーという働き方は生活様式までに昇華されたので,フリーターと違ってヒッピーと同じような扱いになっている。そこにはここは譲れないという,ある種の美学があるからだろう。お年玉袋を内職で作っている母親が旅行先の温泉旅館で作業をしていたら,それはノマドママンになるが,ノマドワーカーへの巷の揶揄や怨嗟からは無縁だ。なぜなら,ノマドママンは格好良くないし,温泉旅館で仕事をすることへの美学もない。揶揄や怨嗟は,好きな場所で仕事ができる特権への羨望と,その特権を誇示することの鬱陶しさによって引き起こされる。鬱陶しくないノマドワーカー,つまりはノマドママンこそが私が目指すところだ。