ノマド探求

二次元移住準備記

そこまで悪い国だろうか。

最近、松屋の麻婆豆腐膳にはまっている。昔給食で出た麻婆豆腐を辛くしたような味で、全体的に安っぽいながらも上手く大人向けにアレンジしている松屋の商品開発力は、なかなかのものだ。ソムリエ風に説明すると、小学生の時に好きだった純朴な初恋相手が、十年後の同窓会で会ったらイケイケギャルになっていた味と言えば分りやすいだろうか。同窓会から帰った後、その髪の芳香を思い出しながら卒業アルバムで自慰するような、背徳感にまみれたノスタルジーにすっかり魅了されてしまった。何より驚くのが、この麻婆豆腐膳はたったの590円なのだ。確かに牛丼よりは高いけど、一品料理の破壊力としては凄まじいものだ。そして、今月の15日まではご飯の大盛りが無料だったのだ。

松屋の麻婆豆腐膳を食べて思うことは、日本はそこまで悪い国ではないということだ。色々な国と比較して、日本の優れている点や劣っている点を自覚することは悪いことではない。しかし国際派やその道の専門家を謳う人達の意見の中には、素直に賛同できない日本を卑下する論調もある。劣等感の裏返しであったり、ルサンチマン全開の自己欺瞞であったり、説得力どころか客観的な論拠すら怪しい感情的な意見だ。では、それらが己の強烈かつ豊潤な体験に基づいた意見かと言えば、そうでもないようだ。私は海外に住んだことはないし、日本でさえも日常の生活圏から離れてしまえば、マクロにしろミクロにしろ良く分からない。だから、日本はどうだとか他の国はどうだとか、偉そうなことは言えない。しかし色々な国を旅行して様々な生活環境を観察した経験から、インフラの整備を含めた日本の生活環境は、どの国と比べても遜色のない堅固なものだと思う。ほぼ毎日のように松屋に行って麻婆豆腐膳を食べているが、食当たりになったことは一度もないし、味はいつもと変わらない。夜道で強盗に襲われたことも、お釣りで偽札を掴まされたことも、野犬に噛まれたこともない。不安を微塵も感じずに、松屋に行って帰ってくることができるのだ。

ここ数年流されるままに、派遣社員としてどうでもいいような仕事をしているが、麻婆豆腐膳をほぼ毎日食べられるだけのお金は稼げている。単純計算で590円×30日として、17700円を夕食に費やせるだけの、さらには生卵かチーズをトッピングするだけの余裕は十分にある。派遣社員として働く前は、三十代後半までアルバイトをしていた。長く働いたコピー屋でも時給は千円強で、手取りでは月20万円に満たなかった。それでも毎日麻婆豆腐膳を食べることはできる。まだ、このコピー屋は健在だ。例え全てを失ったとしても、誰でもこのコピー屋で働き始め、麻婆豆腐膳を食べることから人生を再スタートできるだろう。こんな国が悪い国であるはずがない。

 

時間を持て余す。

365日24時間、日勤と夜勤を交互に勤める変則シフトで働いているため、カレンダー通りに働く友達とは時間が合わず、遊ぶ機会が激減した。友達と遊んでいた時間は勉強と創作活動に充てたいところだが、生産的なことをする気が全く起きない時がある。

最近、暇潰しと体力増強を目的にランニングを始めた。二時間弱、歩いているのか走っているのか分からない速度で、夜中に近所をランニングしている。近所と言っても二時間も走れば二、三駅を往復する距離はあるので、そこそこ良い運動になっている。走っている最中は予想以上に気分爽快で趣味にしたいが、膝が痛くなりそうなので今は三日に一度ぐらいの頻度に抑えている。ランニング以外にはスタバで本を読んだり、家でネットサーフィンをして暇を潰している。楽しくなくはないが、充実した時間を過ごしているとは言い難い。時々休日の夜に一日何をしていたのかを考えると、あまりのくだらなさに虚しくなる。

勉強も創作活動もする気が起きない時は、何をしたらいいのだろうか。何か人生を充実させてくれる趣味が欲しい。風俗とか博打とか人生を狂わせる趣味は嫌だが、これがあるから俺は生きているのだと言い切れるだけの何かが欲しい。これを持っている人は、貧乏でも幸せだと思う。今のところ時間はあり余っているし、趣味に使える金もそこそこ稼げているので、今年は色々と試してみようと思っている。

死に場所を見つけて生きる。

去年の四月から働き始めた新しい職場と業務にも慣れて、色々と新しいことを始めたり、何かを考えたりする余裕が出てきた。余裕ができたのは結構なのだが、色々と考えすぎて沈鬱な気分になる時がある。

自分の将来を真剣に考えると、現状の延長線には惨憺たる未来が待っている。今のままの職能と職務経験だと、派遣社員として働けるのはあと四、五年が限界だろう。かと言って、正社員として雇ってくれる会社は派遣法逃れに正社員として雇うだけであって、派遣先が見つからない社員を座らせる椅子までは用意してくれない。このまま派遣社員で働くにしろ、何ちゃって正社員になって働くにしろ、IT業界から離れた後はアルバイトで食い扶持を稼ぐしかなくなる。中年を越えた初老の人間にできることは、交通整理か清掃か、恐らくそんな類のアルバイトしかないだろう。

より良い待遇を勝ち取るために国境を越えるノマドでも、自由を満喫するために職場に囚われないノマドでもなく、飢えを凌ぐ難民のようにサバイバルするためにノマドにならざる得ない者もいる。もはやノマドとは呼べず、デジタルルンペン辺りがお似合いかもしれない。なるようにしかならないのはどんな人生でも同じだが、悪足掻きはしてみるつもりだ。しかし悪足掻きをするには、そこで生き抜く覚悟が必要になると思う。そして、生き抜いた先には死が待っているのだから、そこで生き抜く覚悟は、そこで死ぬ覚悟に繋る。

将来を考えた時のこのフワフワとした居心地の悪さは、ここで死ぬ覚悟が定まっていないせいだろう。それは、収まりの悪いキンタマのようにキョドキョドして生きる原因でもある。死に場所を見つけた時にこそ、諦念とは違う真の平穏が訪れる予感はある。子育てと家のローンに追われる同僚と飲みに行った時、彼らが酔いに任せて呟く吐露から、そのことがよく分かる。