ノマド探求

二次元移住準備記

夢が潰えた時。

時間さえあれば、何にでもなりたいものになれ、何でも欲しいも物が手に入ると思っていた時期があった。なろうと思えば富豪にでも文豪にでも、いつかはなれるし、欲しいと思えば優しい嫁も可愛い子供も、いつか手に入ると思っていた。時間は常に自分の味方だと思っていた。幼児が抱く全能感とは違う。努力をすれば、いつか夢が現実になる無限の可能性を自分が持っていると勘違いをしていたのだ。だから海外旅行に行けば、そこに住む自分を想像し、天職や生涯の伴侶が待っているのではないかと心が踊った。描いた夢がただの夢であり、決して叶うことはないと悟ったのは、すでに三十代の半ばを過ぎた頃だった。

夢から醒めた後、しばらく寝床でうつつを抜かすように、時の流れの残酷さが身に染みたのは、現実に気が付いてからしばらく経った後だった。時間は巻き戻せないし、一生、なりたいものにはなれず、欲しい物も手に入らない。そんな現実をやっと人生の曲がり角に差し掛かった時に痛感した。普通なら学校を卒業し、社会人になった二十代前半で気付くのだろう。しかし、三十代後半までアルバイトでしか働いた経験がない中年フリーターがそれに気が付いた時には、挽回できないまで夢をこじらせ過ぎていた。それで人生に絶望したかと言えば、そうでもない。むしろ諦めがついたというか、やっと夢から醒めた安堵の方が大きかった。それが夢だと分かっていながら、夢を見続ける人生は苦しい。

中年フリーターの見る夢は甘い夢ではなく、どこかでグルグルと空回りするカフカ的悪夢に近い。醒めない夢にいい加減飽きていた頃だったので、そう感じたのかも知れない。夢の潰えた現実に興味はなかった。そして、それまで抱いたことのなかった死の観念に魅了されるようになった。自殺つもりは毛頭なかったが、自分の死を夢想すると不思議と心の安寧を得られた。死の観念が、潰えた夢の代わりだった気がする。夢が生きているうちに叶わないように、三途の川も生きているうちには渡れない。夢と死の観念は案外似ている。前衛芸術を楽しめるようになったのも、ちょうど同じ頃だ。暇潰しと好奇心で観に行った暗黒舞踏の舞台に没入し、何度か吉祥寺まで足を運んだ。彼らの踊りに、死の匂い、死の可能性を感じ取り、全身白塗りの褌一丁で踊る彼らに担がれて三途の川を渡れそうな気がした。小難しい理屈は抜きにしても、舞台を観ているとつまらない現実を忘れられたのだ。