ノマド探求

二次元移住準備記

音楽と記憶。

ジョン・バトラーのUsed to get high for a livingを聴くと、何回目か忘れたがタイを旅行した時の情景を思い出す。アソーク駅近く、大通りに面したパン屋のテラス席で、コーヒーを飲みながらその曲を聴いていた。当時の同僚が、ジャック・ジョンソンを筆頭とするユルユル系サーフミュージックが好きで、お薦めミュージシャンの一人としてジョン・バトラーを教えてくれた。特にその曲をタイで聴こうと思っていたわけではない。たまたまiPodにアルバムを入れていたのだ。その前日は夕方にスワンナプーム国際空港に着き、ホテルの一階にあったレストラン兼バーでグダグダ飲んだ後、夕食を食べずに寝てしまった。それから腹が空いて朝早く目が覚めたが、朝食は宿代に含まれてなく、近くのレストランもまだ開いていなかった。散歩がてらに朝飯を取れる所を探してプラプラと歩いていた時、何気なく開いていたそのパン屋に入ったのだ。車とスクーターの往来を眺めながら、渡航後の心地よい疲労感と日本を離れた解放感、排気ガスと香辛料の匂いが混ざったバンコクの空気が醸し出す異国情緒、それから日本に帰っても仕事がある安心感、それらが曲と一緒に脳みそに焼き付いたのだろう。今でもUsed to get high for a livingを聴くと、その時の旅情がジンワリと滲み出てくる。

学校を卒業して以降、人生に区切りをつける経験がない。ごく普通に生きていれば、学校を卒業した後も、区切りをつけるための行事はたくさん訪れる。新卒で社会人になれば、そこで学生生活に区切りはつくし、結婚をすれば、そこで独身生活と区切りがつく。そこまで大きな行事でなくても、新しい環境に移ればそれで区切りがつくし、その環境で友達や恋人ができれば、それこそ人生の転機と刻まれる区切りがあるかもしれない。そういう行事を、学校を卒業して以降、一切経験していないのだ。もしくは覚えていない。そのせいか、なんだか時間が間延びし、今でも学生気分を引きずっている。人生経験が乏しい人が、どこか若々しく見えるのも、恐らく行事によって記憶の時系列を整理できないため、いつまで経っても若人の感覚だからなのだ。厳しい経験は人の顔と手に皺を刻むと同時に、人生に節目を刻む。数々の区切りを辿り、記憶の時系列を整理して章立てできた時、自分が年を取った事実を自覚する。

記憶の時系列が曖昧なため、その時々の断片的な記憶は思い出せるのだが、それが一つのストーリーに繋がらない。家で寝転がりながら妄想に耽っている生活は同じだが、過去の自分がどこか他人のような気がする。ただ、その時によく耳にしていた音楽を聞くと、その当時の情景を鬱勃と思い出す時がある。鮮明な記憶ではなく、どこか朧気なフワッとした印象が意識に上がってくるのだ。そして、それが紛れもない自分の経験や体験であると確信する。打ち火となる音楽は、テレビやスーバーで繰り返し流れていたCMソングの一節だったり、その時に良く聴いていた曲の導入部やサビだったりする。どのように、その音楽と記憶が自分の中で紐づいたのかは分からない。辛い体験も楽しい体験も同じように思い出すし、本当にどうでも良い記憶が甦る時もある。その時の感情の強弱はあまり関係がないようだ。海外旅行に行った時に聴いていた音楽は、それを聴き返すと、その時の朧げな情感が比較的甦りやすい。日常生活の中でテーマ音楽を決めて聴いていても、思い通りに記憶は焼き付かない。日常と非日常の違いはあるようだ。余談となるが、タイで聴いていたUsed to get high for a livingはジョン・バトラー・トリオの演奏ではなく、ジョン・バトラーが個人で活動していた時にライブで演奏したものだ。リモートワーク中に聴こうとspotifyで探したが、残念ながら配信されていなかった。